〜心妙剣と夢想剣〜

久しぶりに司馬遼太郎を読んだので少し引用してみる。


■サトリの話と剣術

昔こういう話があった。


深山であるキコリが斧をふるって大木を伐っていたとき、
いつのまに来たのか、サトリという異獣が背後でそれをみている。
「何者ぞ」
ときくと、
「サトリというけものに候」
という。


あまりの珍しさにキコリはふと生け捕ってやろうと思ったとき、
サトリは赤い口をあけて笑い、
「そのほう、今わしを生け捕ろうと思ったであろう」
と言い当てた。
キコリは驚き、このけもの容易に生け捕れぬ、斧で打ち殺して
やろうと心中たくらむと、すかさずサトリは
「そのほう、斧でわしを打ち殺そうと思うたであろう」
といった。


キコリはばかばかしくなり、
(思うことをこうも言い当てられては詮もない。相手にならずに
木を伐っていよう)
と斧をとりなおすと、
「そのほう、いま、もはや致し方なし、木を伐っていようと思うた
であろう」
とあざわらったが、キコリはもはや相手にならずどんどん木を伐っていた。
そのうち、はずみで斧の頭が柄からぬけ、斧は無心に飛んで、異獣の頭に
あたった。頭は無惨にくだけ、異獣は二言と発せずに死んだという。


剣術でいう無想剣の極意はそこにある。
この寓話は、おそらく創作上手の禅僧がつくった話だろうが、神田お玉が池の
千葉周作はこの話しが好きで、門弟に目録や皆伝を与えるときは、必ず、
「剣には心妙剣と無想剣がある」
といった。
周作はいう。
「心妙剣とはなにか」


別名を実妙剣といい、自分が相手に加えようとする狙いがことごとくはずれぬ
達人のことで、剣もここまでいけば巧者というべきである。
しかしこの剣も、サトリの異獣のようにそれ以上の使い手が来れば破れてしまう。
無想剣とは、
「斧の頭」
なのだ。斧の頭には心がない。ただひたすらに無念無想で動く。
異獣サトリは心妙剣というべきであり、無想剣は斧の頭なのだ。
剣の最高の境地であり、ここまで達すれば百戦百勝が可能である、と
千葉周作はいうのである。



竜馬がゆく(一)より〜




■無想剣とあの人


司馬遼の作品は、その主人公を魅力的に描く巧みな作風も好きだが、
このような色々な寓話や閑話休題が盛り込まれている点も好きで、
筆者が相当な量の文献を読んだ集約が一つの作品となっていると思う。


FPSを上手にやるためにはクランに入るべきで、
クランで教えてもらう技はここでいう「心妙剣」のほうであろう。


http://them.lomo.jp/CS/pukiwikiCSS/pukiwiki.php?Flash

こういう技を練習して実践し、少しでも「心妙剣」の域に近づかなくてはいけない。



しかし、我がUBCSには一人、「無想剣」の使い手がいる。





































































だれって?








































































































当然JasJas氏ですよ。

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